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東大阪・旧河澄家で企画展「秋成、どんな字?」 筆跡から人物像探る

晩年の上田秋成の作品

晩年の上田秋成の作品

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 東大阪市指定文化財の旧河澄家(東大阪市日下町7)で1月18日、企画展「秋成、どんな字? 筆跡を手がかりに、人物像に迫る!」が始まった。

1800年頃の和歌

 河澄家は江戸時代に日下村の庄屋を務めた旧家で、母屋西側に建てられた数奇屋風書院造りの建物「棲鶴楼(せいかくろう)」は、第15代当主・常之と親交が深かった国学者で作家の上田秋成ら、文人が集う文芸サロンになっていたという。同施設では、秋成をはじめとする文化人の墨蹟(ぼくせき)から、その人物の性格やその時の状況、信念などを感じ取ってもらおうと同展を企画した。

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 1734年、大坂・曽根崎に生まれた秋成は5歳のころに罹患した天然痘の後遺症により右手中指が萎縮。筆圧が弱く、「自分の書に対して少なからず劣等感を持っていたのでは」という。会場では、65歳から75 歳までに書かれた墨蹟を時系列順に紹介し、その筆跡の変化をたどる。

 1798年ごろ秋成は妻を亡くし、左目に次いで右目も失明し、唯心尼に誘われ日下へと旅立つ。親友の小沢蘆庵(ろあん)が別れの際に詠んだ歌の返歌の字は、全体的に線が細く、弱々しい印象。この当時の和歌には線の震えや行の傾倒が目立っており、「あえて盲書と書き残しているのは、書の出来栄えを気にしているからでは」と、学芸員の曽束奈美さん。

 その後、はり治療を受けるようになり、1803年ごろには歩行に困らない程度に視力が回復。この頃の字は墨の濃淡がはっきりとし、作品に奥行きが感じられる。連綿も多用し、流れのきれいな書になっていることが見て取れる。

 秋成の目を治療した谷川三兄弟の子孫の下には、秋成が治療の謝礼に贈った歌文が多く残されており、晩年の作品では、沖縄に生息する植物「アダン」の繊維をほぐして作られたアダン筆で書いた力強い筆跡が見られる。会場には、アダン筆の試筆コーナーも設ける。同展では、慈雲が書いた棲鶴楼の扁額(へんがく)や、儒学者・岡村閑翁が90歳の時書いたというふすま書も展示する。

 「最初に65歳、70歳、75歳の秋成の字をみてもらい、展示を見終わったあとに最初に持った印象と照らし合わせて見てもらいたい」と曽束さん。「大正5年に閑翁を取材した新聞記事もあるので、人物像にも興味を持ってもらえたら」と話す。

 開館時間は9時30分~16時30分。月曜休館。入館無料。2月9日まで。